伊賀の徒然草

伊賀名張のひまな行政書士の戯言です。

伊賀山人回顧録(旭川編その1:26・27歳)

 昭和52年から53年にかけての写真は、あまり多くは残っていない。
 業務多忙で、元々あまり多くの写真を撮っていなかったし、39歳の重病発症時に終活の一環として処分してしまったためである。

 【稚内 日本最北端の地 S52、26歳の春】
 北海道各地の演習場を巡って転地訓練するための訓練計画作成に資する事前現地偵察のときのものである。


 【部隊訓練時の集合写真】
 これは、その後部隊訓練で稚内を訪れた時のものである。

 この頃の伊賀山人の職名は、訓練幹部兼通信幹部兼情報幹部兼不発弾処理幹部兼副弾薬幹部であった。
 これだけ多くの職務を兼務しても手当は1円もつかない。
 便利屋としてこき使われたという思い出しかない。
 当時の伊賀山人は、お世辞にも謙虚とは言えなかった。
 部下には人気があったものの、上司や同僚とはよく衝突した。
 「お前たちのやっている仕事の5人分や10人分くらいは俺一人でできる。」と大言壮語して憚らなかった。
 そのことが、これほど多くの職務を仰せつかる原因になった。


 「口は災いの元」とは、そう言うことである。



 昭和52年の冬から、伊賀山人は趣味としてスキーを始めた。
 道具は、1年前に購入していたが、忙しすぎてお蔵入りになっていた物である。


 スキーは、某大でも部隊でも訓練でかなり習熟していた。
 しかし、そのスキーは、所謂歩くスキーである。

 

 【歩くスキー】
 このスキーでは、靴は登山靴のような防寒用の革靴でスキー板にはつま先だけが固定されており、踵は浮くようになっている。
 通常の踵が固定されるスキーとは、操作方法が全く異なる。
 一般的には、歩くスキーでゲレンデを滑る方が難しいのであるが、伊賀山人の場合には、こればかりやっていたので、私物のスキーを始めた頃はまともに滑れなかった。


 年が明けて、昭和53年には部隊の有志で作るスキー部に加入して練習し、シーズン終わりには部のスキー大会に出場した。
 なお、昭和53年の写真で残っているのは、次の1枚だけである。 

 【スキー大会で嵐山スキー場を滑り降りる伊賀山人】
 歩くスキーでは、パラレルターンでもできる伊賀山人が、何とシュテムターンである。
 歩くスキーでのターンは大きな体重移動で行うが、普通のスキーでそれをやると回り過ぎて猛烈な勢いで飛ばされてしまう。
 歩くスキーの癖が残っている伊賀山人は、微妙な体重移動に慣れるのに一苦労した。



 【表彰状 S53.2.25】

 それでも、初心者クラスでは完走できるものが少なかったこともあり、見事に優勝して次回からは中級者(Bクラス)の仲間入りとなった。

 この年、次女が誕生した。



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