伊賀の徒然草

伊賀名張のひまな行政書士の戯言です。

伊賀山人回顧録(川西編:39~41歳)

 北海道で不治の病に侵された伊賀山人は、関係上司から今後の昇任も昇給も諦めろとのご託宣を頂き、平成2年(1990年)8月、部隊勤務の第1線から追われて、兵庫県川西市にある某病院の企画室で勤務することになった。
 仕事は、病院の業務計画の作成、医療監査の受検、医学会の計画実施の他に、野戦病院隊や緊急患者輸送隊の運用などの戦術教育に至るまで広く担当した。
 迫りくる吐き気の中、重い体を引きずっての勤務であったが、この間、戦争神経症などの精神疾患やカウンセリング技法などを再確認する好機でもあった。


 なお、この病院での勤務は1年半であったが、その間の写真は1枚もない。



 【某病院】

 玄関を入って左側、この画像では左端の標識柱を見通す部屋が、伊賀山人の執務室であった。


 【岡山にて 右から長女、長男、次女の順 H3.8.6】
 40歳になって帰省中の伊賀山人、全身不調で全く元気がない。


 そして、平成4年(1992年)3月、某病院での僅か1年半の勤務を終えて、伊賀山人41歳の春には大阪へ転勤することになる。
 この病院から転出する時には、広範多岐に亘る勤務の労を多として主治医でもあった病院長が表彰状をくれた。
  医療を専門とする病院長が、武器弾薬を専門とする幹部を表彰したのは、病院開設以来初めてのことであった。


伊賀山人回顧録(島松編:37~39歳得意から失意へ)

 昭和63年(1988年)8月、伊賀山人は、北海道恵庭市島松の某部隊に転属した。
 此処での職務は、隊本部運用班長という作戦・情報担当の幕僚であった。


 年明けの昭和64年正月、北海道では初めてとなる日米共同演習が行われることになった。
 2年前に東北初めての同演習に参加したばかりの伊賀山人にとっては、運が良いというか悪いというか、部隊総員500名の中から僅か5名の参加者の中に予想通り含められた。


 そして、昭和64年1月、共同演習は始まった。
 演習途中の1月7日、昭和天皇が崩御して、元号は平成に改まった。


 【指揮所にて H元.1.20】
 左端の米軍人が、伊賀山人のカウンターパートで武器群の責任者であるアラバマ州兵のホッグ大尉である。
 演習開始前に、この人と事前連絡を取るのに一苦労した。


 東京の米軍座間基地に到着すると聞いていたので、予め英文で書いておいたメモを片手に座間基地に電話した。
「ディス イズ メイジャー ハマノ ジャパンアーミー スピーキング。アイ ウォナ スピーク トゥ キャプテン ホッグ」


 すると、交換手が流暢な日本語で答えた。
「ホッグ大尉は、現在米国から移動中です。明日夕刻に当基地へ到着する予定です。」


 伊賀山人がわざわざ、たどたどしい英語で話す必要もなかった。
 考えてみると当然のことであった。
 米軍基地とはいっても、日本に駐留しているのだから、交換手が日本語を話せるのは当たり前のことである。



 【同上 H元.1.24】
 指揮所の電話は、殆ど伊賀山人の専用であった。
 英語でかかってくるので、部下全員が伊賀山人をあてにして、誰も出ようとはしなかった。
 なお、壁が傾いているように見えるが、この建物は終戦後の連合軍の占領時に使われていた蒲鉾型のバラック(兵舎)をそのまま使っている。
 外観は、農業用のビニールハウスに似ている。



 【演習開始前の調整会議 H元.1.25】
 伊賀山人を筆頭に英会話の得意な者はいないし、通訳もいなかったが、気は心で、何とか会議を乗り切った。 


 【コミュニケーションホールにて】
  コミュニケーションホールとは、早い話が隊内に開設した居酒屋である。


 この演習は、1箇月間続いた。
  毎日、朝の7時に始まって夜の7時に終わる。
  次の日に今日の続きから始めるので、演習としては余裕があった。
  要職を占めていた伊賀山人は、1箇月連続で勤務したが、部下は数日毎で交代した。
  そこで、日米親善と英会話能力の向上の為、夕食・入浴を済ませた後、このホールに毎晩欠かさず部下を連れて行って懇親の実を深めた。


 写真は、名前は忘れたが米軍の2等兵である。
  2等兵の給料は安くて余り小遣いを持っていなかったようなので、遠慮しないようにビールを大量に並べて御馳走した。
  どうして、こんなに歓迎してくれるのかと問うので、「We AreThe Friends.(ウィアー ザ フレンヅ)  We Are The World.(ウィアー ザ ワールド)」と言ってやると、涙ぐんで喜んでいた。
 この当時、そのような題名の洋楽が流行っていたのは周知のことであった。



 【海兵隊のポッツ軍曹】
 彼は、予備役ではなく正規兵で、沖縄から家族連れで訓練に参加していた。
 家族はもちろん、部外のホテルに泊まっていた。
 この2~3日後、ホームヴィジットと称して、日本の自衛官の家に泊まって親睦を深めた。



 【某曹長の自宅を訪れたポッツ一家】
 伊賀山人の官舎は狭かったので、左端にいるH曹長の家に招待した。


 【ポッツ軍曹と会話する伊賀山人】
 伊賀山人の英会話は、殆ど出鱈目英語である。
 それでも世間話くらいなら何とかなるので、良しとしている。



 【作戦計画を練る伊賀山人 H元.1.27】
 仕事もきちんとこなした。



 【同上の日の夜】
 仕事が終われば、又懇親会である。


 【演習終了後アメリカから送られてきた写真】
 伊賀山人の左右は、衛生兵である。


 【ミシガン州兵のブラウン少佐】
 彼とは、その後も暫く文通が続いたが、やがて音信不通となった。


 【1989年クリスマスカード】
 ブラウン少佐からの年賀状を兼ねたクリスマスカード。
 1988年と書かれているが、演習終了直後に送られて来たので、年明け前のカードである。


 【ブラウンファミリー】
 アメリカ人は、大人も子供も、必ず歯を見せて笑う。
 日本人のように口を開けずに笑う仏像のような微笑は、アメリカ人から見るとどうも薄気味悪く思われているような気がする。


 【米軍部隊章】
 どこの部隊章か、半分くらいは忘れてしまった。



 演習が終了した平成元年2月末、伊賀山人は、長男と二人で恵庭市のスキー大会に参加した。
 「成人男子の部」に参加した伊賀山人であるが、7年間のブランクは大きく、完走はしたものの賞には遠く及ばなかった。


 「小学1・2年生の部」に参加した長男はまだ1年生であり身体は一番小さく、またこのシーズン伊賀山人が教えて、初めてスキーを覚えたばかりで、明らかに不利であった。
 伊賀山人は長男に、赤と青の旗の真ん中を通ることと、転んだときは元の位置に戻って滑り直すことだけを教えた。

 長男は、全コースをプルークターンで降りてきた。
 そして急斜面で何度か転んで旗門不通過になりそうになったが、その都度、教えたとおり元の位置まで急いで登って滑り直した。
 見物人も大会役員も、子供ながらその旺盛な敢闘精神に惜しみない拍手と歓声を送った。
 結果、時間はかかったものの、第3位になってメダルを貰った。
 完走者が3名しかいなかったこともあるが、諦めなければ成果は得られるということである。



  【北海道名寄市豊栄にて 平成元年夏】
 幹部現地戦術研究の途中である。
 

 【大雪国有林にて】
 同上


 【同上 平成元年.夏】
 この時の宿泊は廠舎ではなく一般の旅館であった。


 【ゴルフ大会にて】
 場所は忘れてしまった。


 そして、この年平成元年(1989年)の夏、伊賀山人最後となる入校が決まった。
 東京都新宿区の市ヶ谷駐屯地にある幹部学校の補給管理課程で、期間は9月5日から12月8日までの3箇月であった。
 この課程では、補給整備管理について、戦略的レベルで研修した。


 卒業を目前にした11月下旬から、伊賀山人は体調を崩した。


 連続する吐き気、上腹部の鈍痛、身の置き所もないような怠さに苛まれた。
 運動不足かと思い、ランニングなどをすると、却って症状は悪化して喉が焼けるような胸焼けまで生ずるようになった。


 12月の卒業後原隊復帰をした伊賀山人は、ただ只管苦しみに耐えて勤務を継続していたが、年明けの平成2年(1990年)新年早々、終に、酒どころか食べ物の匂いをかいだだけでも吐き気を催し、ジュースのような飲み物以外口に入らなくなった。
 また、上腹部の鈍痛は尋常ではなく、寝ることもできなくなり、終に、1月中旬生まれて初めて内科を受診した。
 後で分かったことであるが、この時既に、重度の黄疸の症状が出ていた。


 そして、即刻、入院となり、それから半年に亘り、入退院を繰り返すことになった。
 重篤な肝不全であった。
 なお、その原因が、40年も前に国が強制した集団予防接種によることを突き止めたのは、発症から20年も後のことである。


 主治医が言った。
 「この病気には、これと言った治療法はありません。だから一生治りませんよ。」と。


 これだけでも伊賀山人をがっかりさせるのに十分であった。


 この正直な主治医は、続けて言った。
 「これほど状態の悪い患者は初めてみました。これから先、何年もつかも分かりません。」と。


 正直なのも時と場合によりけりである。
 伊賀山人の微かな希望は、風前の灯火となった。

 39歳の誕生日は病床で迎えた。
 やや症状が軽快して退院した時には、アルバムや記念品など思い出の品々の殆どを処分した。
 カメラだけは捨てなかったが、お蔵入りになって約10年間、一度も触ることはなかった。


 伊賀山人失意の時代の始まりであった。
 




伊賀山人回顧録(仙台編:35~37歳)

 昭和61年(1986年)8月、伊賀山人は中隊長として仙台に赴任した。
 着任後、直ちに部隊の人員・装備・施設を掌握して、業務を開始した。


 【岩手山演習場にて】
 毎月、野営訓練を行って、部隊の練度の維持向上を図った。
 写真は、岩手県での野営終了後の記念写真である。
 後ろの山が、岩手富士或いは巌鷲山(がんじゅさん)とも呼ばれる岩手山(いわてさん)である。


 【幹部親睦会】
 相も変わらず、懇親会は多い。
 仙台では、観光地が多いこともあり、泊りがけのことが多々あった。
 伊賀山人は昔小豆島に住んでいたことがあるが、旅館ではこの写真の女将のような大年増にもてた。



 翌昭和52年正月に、東北方面隊では初めての日米共同演習が行われることになった。
 この演習は、コンピュータを使った、所謂図上演習というもので、方面隊のごく一部の人員だけが参加するものである。
 今まで経験したことのない初めての仕事というものは、準備から実施、演習後の成果報告に至るまで、大変な労力を要する。
 誰もが敬遠する演習であるので、嫌な予感がしていたが、案の定、伊賀山人が企画統制部に抜擢されてしまった。


 前年末から1箇月もかけて演習全般を企画して計画を策定し、軍事英会話集などを作成配布し、挙句の果てには、ウェルカムパーティーやサヨナラパーティーなどの宴会の幹事まで担当した。


 伊賀山人は、英会話が得意ではない。
 宴会では、世間話の一つや二つが出来なくては面白くない。
 そこで、演習準備間から通訳として参加しており、私と親しくしていた某大の後輩に訊ねてみた。

「『当地仙台は、伊達62万石、独眼竜政宗の領地であった』とはどう訳すのか?」


 後輩は真面目に答えた。

「『62万石』の直訳は難しいですね。経済力が大きいとかに意訳するしかないでしょう。『独眼竜』は『ワンナイズド ドラゴン』でいけると思います。」


 私は次いでもう一つ訊ねた。

「それでは、『我が国は豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国、お国は米国、奇(く)しき因縁ですな~』を訳してくれ。」


「ん~む、先輩~、勘弁してくださいよ~ そんな古事記の話から翻訳してたら5分や10分じゃ終わりませんよ~ 第一、アメリカは米の国なんかじゃ~ありませんよ~」

 漸く、からかわれていることに気付いたようであった。


 パーティーでは、日米軍人が双方の階級章や部隊章を交換する習わしがあった。

 【米陸軍予備役のシール】
 米軍で直ちに出動できる正規軍の常備役(職業軍人)の数はそれほど多くない。
 米軍人の大半は予備役であり、平時は州兵の身分を持ったままで日常は民間人として働いている。
 州兵は、所属する州で災害などが発生すると、招集されて救助活動などを行う。
 また、ベトナム戦争やイラク戦争のように米国が大規模な軍隊を派遣する際には、合衆国正規軍に編入されて従軍する。


 当然ながら、日本有事の際も、予備役を編入した米軍が増援に来ることになるので、この演習には、在日米軍の常備役も一部参加したが、参加者の大半は米国各地から訓練召集された予備役つまり州兵であった。


 上記のシールは、予備役のシンボルマークである。
 独立戦争を戦った兵士がモチーフになっている。



 【兵科章】
 軍種ごとにシンボルマークが制定されている。
 上記は、砲兵、武器兵、工兵、衛生兵、通信兵などである。



 【階級章】
 米軍階級章は、天高くそびえる1本の木をイメージしている。
 下士官・兵は木の根、尉官は木の幹と枝、少佐中佐は木の葉、大佐は鷲、将官は星である。
 なお、この写真では最上段が少佐である。
 中佐は少佐と同じ樫の葉の形で、色が銀色になる。
 二段目は、左が大尉、右が中尉である。
 少尉は、中尉と同じく一本線であるが、色が金色である。
 階級章においては、銀色の方が金色の上位になる。


 【海兵隊の階級章等】
 海兵隊の階級章は、陸軍とほぼ同じであるが、やや小ぶりである。


 最上段の黒いバッジは、海兵隊の帽章である。
 鷲が留まっている地球に錨を下ろしているというデザインである。
 海兵隊のモットー、「全ての軍種に先駆けて敵地に侵攻し、政治的・軍事的介入の足掛かりを創る』を表現している。


 中央部の羽に錨のバッジは大小共に、オスプレイなどを操縦するパイロットが付けている海兵隊航空操縦士徽章である。



 【各州兵部隊・軍種のピンバッジ】
 各州兵ごとにPR用のピンバッジを作っている。
 これらには、州名や軍種のモットーなどが記載されている。



 【中隊創立10周年記念写真 S62.3.25)
 伊賀山人の中隊は、創立が比較的新しく、この日漸く10周年を迎えた。
 左端の旗は、中隊旗である。
 観閲式など門ある時には、必ず旗手が捧持する。
 旗手は、若い下士官から選抜される。
 中隊長の次に目立つので、単なる旗持ち作業員ではなく、若い下士官の中から容姿端麗、身体強健、品行方正な者が選抜される。


 【創立記念祝賀会食】
 日本三景の一つ、松島のホテルで泊まりがけの会食である。


 【婦人自衛官入隊式】
 自衛官の約5%が婦人自衛官である。
 伊賀山人の所属する部隊にも、毎年男子隊員のほぼ10分の1の数の女子隊員が入隊した。
 男社会に、殆ど20歳前の若い娘が入るわけであり、本人の不安はもちろんのこと、父兄の心配も大きかった。
 だが、何も問題ない。
 仕事は、先輩の懇切丁寧な指導により徐々に覚えて行く。
 2~3年後には、心配していた父兄に義理の息子が一人増えるだけのことである。
 
 この当時は、殆どの婦人自衛官が結婚すると寿退職していたが、現在では夫婦共に定年まで勤めることが多いようである。



 【同上祝賀会食】
 宴会とは別に、何か行事があるごとに会食を行うのもこの組織の特徴である。
 駐屯地内の隊員食堂での会食であり、メニューは通常の昼食にケーキか果物を一つ付けるくらいな質素なものである。
  新隊員の場合には、未成年者が多いので、酒類は出さない。


 【町内会対抗ソフトボール大会記念写真 S62.6.1】
 田舎の自治会では、運動会などがよく行われていた。
 参加希望者が少ないため、官舎の住人はよく駆り出された。
 実は、武道家伊賀山人は球技が苦手である。


 【次女誕生日 S62.8.1】
 この小さなコタツが家族5人の食卓であった。
 決して、裕福とは言えなかったが、狭いながらも楽しい我が家であった。


 【体験入隊記念写真】
 近傍の民間会社からの依頼により、新入社員の体験入隊を担当した。
 期間は、ほぼ1週間くらいで、基本教練や徒手格闘などを教育した。
 会社からは、社員の服装態度が見違えるほど向上したと感謝された。



 【伊賀山人送別会 S63夏】
 伊賀山人の中隊長勤務は2年で終了し、昭和63年8月に、北海道恵庭市に転勤することになった。


 手前のVサインを挙げている男は、「ピース」と言っているのではない。
 「熱燗で2本!」と言っているのである。



 【中隊長室で最後の事務を執る伊賀山人37歳 S63夏】
 某大の貴公子もかなり年を取っては来たが、この頃は、まだ心身ともに強健であった。

 2年間暮らした仙台は、住みやすい所であった。
 東北最大の都市ではあるが、杜の都と言われるだけに、市街地でも並木などの緑が多く、東京・大阪などの猥雑な雰囲気が無い。
 また、市街地を少し離れると、松島などの景勝地や山紫水明の田園地帯が広がっている。
 冬でも雪が少なくゴルフもできるし、その隣の山ではスキーもできる。
 何でもバランスよく整っているのが、杜の都仙台である。



 【青葉城の伊達政宗像】



伊賀山人回顧録(土浦編:33~35歳)

 昭和59年3月、伊賀山人は茨城県稲敷郡阿見町にある某学校に入校した。
 就学期間が、丁度1年有ったので、それまでの入校とは異なり、この学校への転属となった。
 なお、所在地は、土浦市の隣の阿見町であるが、駐屯地の名称が土浦駐屯地であるので、通称土浦と呼ばれている。


 【卒業記念写真 S60.3.1】

 この課程の選抜試験を1回で合格する者は珍しく、学生の中では伊賀山人が最年少であった。
 この課程では1年間をかけて、上級指揮官・幕僚として必要な知識・技能を修得し、判断力を涵養した。
 そして、卒業と同時に、他の学生が全国津々浦々に転属する中、伊賀山人だけが学校教官として残ることになった。

 4月に、思いもよらず、何と次の入校が決まった。
 東京都小平市にある業務学校の研究技法課程である。
 この学校の最寄りの駅は、国鉄の国分寺駅である。
 もしかしたら、その当時留学していたmoliさんとどこかで出会っていたかもしれない。


 【国鉄国分寺駅(2017.1.16)】
 これは、当時のものではなく、丁度2年前の国分寺駅である。


 【研究技法(研究員)課程記念写真】
 この課程では、統計技法やOR技法など装備品の研究活動に必要な知識・技能を修得した。


 【教え子の集合写真 S61.3.26】
 業務学校卒業後、伊賀山人は本格的に教官として勤務することになった。
 担当は、管理技術であったが、諸般の事情により、戦史・戦術・戦闘戦技の教育まで仰せつかった。
 その他に、各課程学生の生活・就学全般の指導に当たる課程主任も兼務した。
 写真は、伊賀山人が課程主任として教育を担当した学生一同の記念写真である。


 この年8月に、また転属が決まった。
 この時だけは、希望が叶って仙台に中隊長として赴任することになった。
 この業界での勤務期間の大半は幕僚勤務である。
 幕僚は、指揮官の意を体すべき職であり、自分の意見を通すことはなかなか難しい。
 指揮官は、自らの信念で行動できる職であり、伊賀山人の望むところであった。。


 【土浦駐屯地観桜一般開放】
 どこの駐屯地でも、春は花見、夏は盆踊り、秋は創立記念行事等で、一般人が自由に入れる機会を年間数日は設けている。


伊賀山人回顧録(宇治編:31~33歳)

 昭和57年3月、伊賀山人は、京都府宇治市にある某補給処弾薬部の技術班長に補職された。
 この職は、近畿・中国・四国の各地に保管されている弾薬類の検査・整備の管理統制や火薬庫の保安検査、不具合発生時の調査研究などの業務に携わるものである。
 思えば、兵隊の階級で言うと少尉任官以来8年、初めて兼務のない単一の職に就いた。
 お蔭で、仕事にも余裕ができて、日曜・祝日なども人並みに休むことができるようになった。


 職務の性質上、多くの研修にも参加した。


 【青函地区輸送連絡隊訓練 S57.5.29】
 北海道有事の際、如何に大量の弾薬を生成円滑に海峡を渡すかを研究した。



 【担当者集合訓練 S57.6.21】
 この訓練は、毎年行われ、弾薬業務の問題点対策などについて協議した。



 【弾薬部親睦旅行 S57夏】
 どこへ行っても職場の親睦旅行は付き物である。
 この時は、どこかの海水浴場に行ったが、場所は忘れてしまった。



 【漁港にて】
 魚釣りの為、右側の船に乗り込もうとしているところである。


 【海岸にて】
 ここで泳いだのは、伊賀山人ともう一人だけである。
 その他の者は、缶ビールを片手に甲羅干しをしていた。



 【海上自衛隊舞鶴地方総監部研修】
 有事における海上作戦の推移が弾薬類船舶輸送に及ぼす影響について研修した。



 【忘年会 S57冬】
 忘年会も毎年欠かさず行われた。
 この時は、旅館に泊まりがけである。



 【危険物取扱者免状(写真は平成4年更新したもの) S58.1.10】
 この頃、弾薬類に含まれる焼夷剤や曳光剤など火薬以外の危険物について研究し、ついでに危険物の免許を取った。
 ほぼ同時に防火管理者の資格も取得した。



 【忘年会 S58冬】
 この頃、伊賀山人は「幹部特修課程」の選抜試験を受験した。
 この課程は高級幹部の養成課程であり、かなりな難関の為、この補給処開設以来30年間誰一人合格したものはなく、枯れ木も山の賑わい程度の気分で受験した。
 ところが…どういう訳か合格してしまい、翌年3月にはまた転属となってしまった。
 昭和59年、伊賀山人33歳の春のことであった。


 【宇治市にある国宝平等院鳳凰堂 (資料画像)】
 この鳳凰堂の中には、国宝の阿弥陀如来座像が安置されており、それを取り巻く壁面には同じく国宝の雲中供養菩薩が掲げられている。


 【阿弥陀如来座像とその周りで楽器を奏でる雲中供養菩薩】
 伊賀山人が、「平等院のキューピッド」と名付けた「雲中金剛愛菩薩」もこの中にある。